平成22年春、平城遷都千三百年祭を機に奈良東大寺大仏殿を中心とした俊乗堂二月堂や
足を延ばして興福寺五重塔・金堂・北円堂・国宝館の阿修羅像などを参観してきました。

 所在地;奈良市雑司町 
                пA0742-22-5511
                      (東大寺寺務所)


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東大寺

東大寺その1
東大寺の創建

東大寺は、奈良時代の中頃に聖武天皇の発願によって創建された。
大和の国分寺として建てられたが、慮舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が本尊とされたために、大規模な伽藍が営まれた。
天下泰平・万民豊楽などを祈願する道場としてと教理研究所を兼ねる寺で、多くの学僧を輩出した。
開山は良弁(ろうべん)僧正。 現在は華厳宗の大本山である。
(東大寺観覧券 裏面説明書より)

それでは東大寺へ参詣しましょう

大仏殿を中心に二月堂・三月堂・四月堂や興福寺金堂・五重塔・三重塔・北円堂・南円堂など参観するところはイッパイ!

駐車場

東大寺南大門

東大寺大伽藍の正面・直線上に建つ正門です。
現在のものは鎌倉時代に再建されたもので、天竺様式を伝える数少ない建造物のひとつです。

仁王様
1203年
(建仁3年)竣工と同時に金剛力士像も完成、
(写真左)阿形(あぎょう)、息を吐き、手を開く開放型。(写真右)吽形(うんぎょう)、息を吸い、指を結ぶ姿。

鏡  池

 東大寺の大仏殿と中門の南にある池の名称で、その由来は、柄の付いた鏡の形をした島があるのによると云われていて、「八幡池」とも云われている。
 その島には弁財天の祠(ほこら)があり、 毎年五月二日に「聖武祭」雅楽が行われます。

中  門

 東大寺中門は入母屋造の楼門で、国の重要文化財に指定されています。
 南大門をくぐって次に見えてきます。 手前から歩いてゆくと中門越しに大仏殿の屋根が見えます。

八角燈籠

八角燈籠・国宝
高さ:4.62m
わが国最古最大の鋳銅製灯籠です。
 ただ平安時代の手直しで、棹の部分が短くなっておるそうです。

 八角灯篭の「火袋羽目板」の浮彫文様は「音声菩薩」「唐獅子」で各四面ずつ配置されております。

東大寺大仏殿

東大寺その2
東大寺の本尊

東大寺はの本尊の慮舎那仏は毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ)とも呼ばれ、華厳経の教主とされるが、
この名は釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・光り輝く仏の意味である。
(東大寺観覧券 裏面説明書より)

東大寺を取り巻く大回廊

東大寺その3
大仏殿の規模

大仏殿は創建以来、1180年(治承(じしょう)四年)と1567年(永禄十年)に兵火に罹っていて、
今の建物は江戸時代に建て直された三度目のものである。
横幅は創建当時より約三分の二に縮小されされているが、それでも木造建築としては世界一の規模を誇っている。
大仏殿(東大寺金堂) ・国宝
間口:57.01m
奥行:50.48m
高さ:48.74m
(東大寺観覧券 裏面説明書より)

        天平の巨大建築物の驚異
 巨大建造物「大仏殿」の柱になるような木材が見つからず、中心材に周辺材を金具や金輪で留めて巨大柱を作っております。その林立する姿は壮観そのものです。

大仏様へ

東大寺その4
大仏様の災難

大仏像は青銅で鋳造され鍍金(めっき)が施されていた。
752年(天平勝宝四年)に盛大に開眼供養が行なわれた。
その後たびたび損傷を蒙り、その都度修理されている。
両手は桃山時代、頭部は江戸時代のもの。

慮舎那大仏(本尊)・国宝
像 高:14.98m
頭 部: 5.41m
目 長: 1.02m
耳 長: 2.54m
台座高: 3.05m
(東大寺観覧券 裏面説明書より)

大仏様の裏へ

大仏の光背

如意輪観音(にょいりんかんのん) 虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)
廣目天 多聞天
              創建当時の東大寺復元模型
 この模型は、創建当時の伽藍の様子を50分の1に縮小・復元したものである。
 「東大寺要録」や「正倉院文書」などの古文献を基にして大正年間に製作された。
 大仏殿は現在のものに比べて東西(左右)に大きく、また高さ100mに達する東・西両塔が聳えていたことが分かる。

鎌倉時代再建の大仏殿模型

修学旅行の懐かしい思い出の場所
金堂の柱に設けられた穴をくぐると、子供の寝小便とか厄除けに効き目があるといわれておりますが、
現在なら、肥満かどうかの測定器具です。外国人観光客が盛んにトライしていました。

大仏殿の外は春爛漫でした。

鐘楼の丘へ
大仏殿「中門」前を通り、東へ進むと「手向山八幡宮」鳥居へ出ます。

この鳥居の手前を北へ坂道を進むと、1970年の大阪万博(日本万国博覧会)の
古河館の塔の上にあった相輪が展示されています。

万博出品相輪

 

大仏殿の東方に「鐘楼の丘」と呼ばれる台地があり、そこに「俊乗堂」「念仏堂」「鐘楼」「行基堂」等の建物が散在します。

東大寺鐘楼の丘

「東大寺俊乗堂・鐘楼・念仏堂」のパンフレットにある
東大寺鐘楼の丘の古図

「鐘楼の丘」
大仏殿の「中門」から「相輪」の方へ入って(図では歩行禁止の道)「俊乗堂」へ進み「大鐘(鐘楼)」から
「念仏堂」「東大寺行基堂」「大湯屋」から「四月堂」「三月堂」「二月堂」を巡ります。

東大寺俊乗堂

                  東大寺俊乗堂
 入母屋造の俊乗堂と呼ばれるお堂の場所は、もと重源によって建てられた浄土堂のあったところで、1567年(永禄十年)の兵火で類焼したが、元禄年間に公慶上人が重源の偉大な功をたたえ、菩提を弔うためにここに御堂を建て、そこに重源上人坐像(国宝)を移し、本尊として安置した。
 肖像彫刻の白眉といわれるこのお像は、快慶作と伝えられているが、確かなことは不明である。
 なおお堂内には快慶作の阿弥陀如来立像(重文)がある。

東大寺鐘楼

               鐘楼:鎌倉時代
 ひときわ天空に聳える鐘楼(重文)はわが国の茶祖としても知られる栄西禅師が、1207〜10年(承元年間)に再建、大仏様にやや禅宗的要素を加味した豪放な建物である。
 建物の総高:13.00m

                    梵鐘:奈良時代
 重さ26,3トンもある大鐘(国宝)は東大寺創建当初のもので、鐘声の振幅は非常に長く、「奈良太郎」と愛唱され、日本三大名鐘のひとつに数えられている。
 日本三大名鐘 京都・知恩院、
           比叡山金剛峯寺・大塔の鐘(高野の二郎)
           東大寺・大鐘(奈良太郎)

               現地の説明文
 この鐘楼は和様、唐様の天竺様式を混ぜて、1207〜10年(承元年間)大勧進 栄西禅師によって建てられた。
 斗栱には独特の様式があり音響を分散さすために板壁等を用いず屋根は音をこもらすために大きく構成されている。     東大寺

                        梵鐘の中 
 「大鐘」の素材は銅が90%以上と言われており錫を混ざれば溶銅の回りも良くなり内部も綺麗な仕上げとなったのに錫を入れると堅くなり割れ易くなるので敬遠されたのでしょう。
 出来上がりが少し問題があるにせよ天平時代によくぞこれだけの大鐘が出来たことが驚きです。

 現地の説明文
 この梵鐘は752年(天平勝宝四年)大仏鋳造のときに鋳造された梵鐘で日本の名鐘のひとつである。
 ことに竜頭と鐘座は天平の文様があざやかに残っている。
 この鐘楼は和様、唐様の天竺様式を混ぜて、1207〜10年(承元年間)大勧進 栄西禅師によって建てられた。
 斗栱には独特の様式があり音響を分散さすために板壁等を用いず屋根は音をこもらすために大きく構成されている。                                                     東大寺
梵鐘の総高: 3.853m
     直径: 2.708m
           重量26.364m

23トンもの重量を支える木造の構造は興味深いものがあります

念仏堂

鐘楼の東に、朱塗りの色も鮮やかな念仏堂(重文)が建っている。
寄棟造りで、元は地蔵堂といわれていた。
鎌倉時代の建物であるが、錣(しころ)葺の屋根は元禄に改修されたものという。
堂内には1237年(嘉禎三年)に仏師康清が造った地蔵菩薩坐像(重文)が泰然と安置されている。

東大寺行基堂

 念仏堂の北側にある宝形造の行基堂は、もとは重源上人の御影堂であったが、元禄年間に上人の坐像を俊乗堂に移したにで、仏師賢慶の造った行基像坐像を安置することとなった。

東大寺大湯屋

大湯屋(重文)は重源によって建てられた浴場で、東西に長い1棟の内部を3区分し、中央には重源の命で、
鋳物師草部是助が1197年(建久八年)に造った大きな鉄製の湯船(重文:非公開)が据えられている。
中世の浴室の様子を伝える貴重な遺産である。

「鐘楼の丘」の奥には二月堂・三月堂・四月堂灘が並んでいます。

「鐘楼の丘」
「大湯屋」から「四月堂」「三月堂」「二月堂」を巡ります。

東大寺三昧堂
(四月堂)

本尊:木造千手観音立像(国重文)
 毎年4月に法華三昧が行われるので『四月堂』と称されます。三昧堂 さんまいどう 普賢堂 ふけんどう とも呼ばれます。
 創建は1021年(治安元年)、鎌倉時代に再建されました。

「四月堂」から奥へ進むと「二月堂・法華堂(三月堂)」の標識が見えます。

階段を登った奥に三月堂があります。

東大寺法華堂
(三月堂)

         毎年旧暦3月に法華会を催されるので「三月堂」と呼ばれます。
 この「法華堂」は、大仏殿の創建よりも古く、733年(天平4年)良弁僧正が創建の「金鐘寺(こんしゅじ)」の一堂、東大寺最古の建物です。
 華厳宗の根本道場として尊ばれ、毎年旧暦3月法華会を催し、「三月堂」とも呼び、堂を横から見ると、回り廊下の手摺、及び、屋根の途中に段差があるが、これは、北側に寄棟造で建てた天平時代の堂に、後から南側に入母屋造の礼堂を鎌倉時代に付け足したからで、堂内に羂索仏で日本最古、高さ3.62mの本尊「乾漆不空羂索観音」、脇侍日光・月光菩薩を始め、乾漆金剛力士、帝釈天、梵天、執金剛神、四天王ら天平時代を代表する国宝仏を多数安置しています。

      法華堂(三月堂)の「北門」
 「三月堂」から「二月堂」へ抜ける門は、「二月堂」の門と見えますが、実際は「法華堂」の「北門」で、鎌倉時代に建てられ、屋根は切妻造、本柱は円柱ですが、四脚は面取りした角柱を使用し、門の左右を貫通している梁は、重源上人が考案した大仏様と同じ建築様式を踏襲し、地震や台風による横揺れに対し強度を増していると言われています。

「北門」をくぐると「二月堂」下へ出ます。

東大寺二月堂

お水取りで有名な「二月堂」です。
 「二月堂」は、752年(天平勝宝4年)女帝の孝謙天皇の勅願により、良弁僧正の高弟、実忠和尚が創建しました。

階段を登ると本殿脇に出ます。

  祠堂に壱千百円を寄進
 現在の価値では幾らなんでしょうか?
 階段脇に多数立っていました。

回廊は裏側にも回り斜面に建てられているのが分かります。

       お水取りの夜「大松明」から落ちる火の粉が豪壮な回廊
 本尊は大観音「金銅聖観音立像」と、修二会の本尊で実忠和尚が難波の海岸で拾った十一面観音立像」で、共に秘仏です。

 回廊からの眺めが素晴らしく本尊様を拝むのを忘れます。

 外国人観光客が満開の桜をバックに記念写真を撮っていました。邪魔しないように気を使ってました

回廊からの展望 桜が素晴らしい季節でした。

回廊からの下りの石段

石段下からの眺めが見慣れた「二月堂」です。

東大寺閼伽井屋
(あかいや)

        「二月堂」の修二会(お水取り)
 本尊「十一面観音」に供える香水の閼伽(あか)は、二月堂下の屋根の四隅に鵜を模った雨漏り防止の留蓋瓦が葺いてある「閼伽井屋」の若狭井から、3月13日午前1時半頃汲まれます。
 これを「お水取り」と称し、普段は全く水が枯れているのに、不思議な事に、3月12日の深夜、「お水取りの儀式」が行われる時だけ、わざわざ若狭国(福井県小浜市)の遠敷(おにゅう)川の水が沸き出します。
 そこで、閼伽井屋の中で香水が湧き出す所を「若狭井」と云い、また、毎年3月2日若狭の鵜ノ瀬で「お水送りの儀式」が行われます。
      閼伽井屋 (あかいや)の鬼瓦
 鎌倉時代初期の建築で重要文化財に指定されていて、魔よけとして屋根の両端に飾られています。
 その姿は獅子鼻、団栗眼(どんぐりまなこ)、下あごのない南都七大寺式鬼瓦の代表的な形です。
 鬼面の瓦が使われるようになったのは、この奈良時代以降です。
 (週間ポスト2012.3.2号 百辞百物百景 松岡正剛 撮影太田真三)

東大寺はまだ数多くの建物がありますが興福寺へ向かうことにします。

続けて「興福寺創建千三百年記念国宝館公開」をご紹介します。

興福寺

国内 国宝仏像彫刻17興福寺に
国宝40点 重要文化財19


710年
和銅三年)に飛鳥藤原京から現在の場所に移築された興福寺は平成22年が
創建1300年でもあり、さらに国宝館開館50年という節目の重なる喜ばしい年でもあるます。
 現在、興福寺は1717年(享保二年)の大火で失われて中金堂の再建を目指しております。
 併催21年秋に鎮壇具埋納を無事に終え、平成22年10月に立柱式をとりおこないます。
 中金堂の完成は、平成30年を予定しております。
  (「興福寺国宝館拝観券」裏面より)

興福寺国宝館

(画像は興福寺国宝館パンフレットより)

拝観料:¥600

館内は撮影禁止の為画像はなし

阿修羅立像
凛とした美しい容姿で人々に愛される天平文化の結晶、
阿修羅立像を含む八部衆像・十大弟子像をはじめ、
鎌倉時代の仏師集団・慶派の手による金剛力士像、
天燈鬼・龍燈鬼立像、法相六祖坐像など。
興福寺国宝館では、創建千三百年の歴史を伝える名宝の数々を一堂にご覧いただけます。
(興福寺国宝館パンフレットより)

国宝 東金堂 内陣
(画像は興福寺国宝館パンフレットより)

 国宝館は食堂(じきどう)跡に建てられました
 僧侶が集団で食事をする食堂(じきどう)が建てられていた場所に、
昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。
 館内には本尊千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)像を中心に、興福寺の歴史を伝える絵画、
仏像、工芸品、典籍、文書、歴史資料、考古遺物などが収蔵されています。

国宝館前に東金堂はあります。

興福寺東金堂

創建当初は床に緑色のタイルが
 726年(神亀3年)に聖武(しょうむ)天皇が叔母元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を願ってお建てになりました。
 創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、
薬師如来(やくしにょらい)の浄瑠璃光(じょうるりこう)世界がこの世にあらわされていました。
 以来6度の被災、再建を繰り返し、今の建物は1415年(応永22年)に再建されました。

五重塔は東金堂と並んであります

興福寺五重塔

                興福寺五重塔
 古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標です。
 730年(天平2年)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后がお建てになりました。
 初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、
 西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置し、
 また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置していたと伝えられます。

興福寺南大門跡

興福寺境内整備計画
現在建物が残っているのは、食堂(じきどう)・東金堂・五重塔・北円堂・南円堂・三重塔など。
計画中の建物、南大門・中金堂・西金堂・講堂などです

興福寺中金堂建設現場

平成30年落慶予定

東大寺猿沢の池

修学旅行の想いでの池でしたが
周囲360mの小さな池で奈良八景のひとつに選ばれています。

蛇足ですが東大寺の文物はシルクロードを経て奈良へ着いたので関係画像を掲載しておきます。

東大寺とシルクロード

東大寺はシルクロードの文化の東の終点
中国の絹を運んだ道「シルクロード」は西の端のローマから、東の奈良の都までの壮大な道でした。

ローマから平城京を基点としたシルクロードの主な中継点

                西の基点ローマ
 ローマ郊外の1800年前遺跡から大理石の墓に埋葬された少女のミイラが発掘されました。
 その埋葬品から当時中国でしか出来なかった絹製品が出土しアジアとの交易の証が示されました。

           ギリシャの考古遺跡デルフィ
 ミロス島で発見された「ミロのビーナス」はトルコ政府で保管されていたが、フラン海軍提督が買い上げ
ルイ18世に献上したが、ルイ18世はこれをルーブルに寄付した。

               トルコ・イスタンブール
 ラスポラス海峡を挟んでヨーロッパ文明とアジア文明の接点イスタンブールはシルクロードのひとつの中継点でした。
        トルクメニスタン・ニサの遺跡発掘現場
 シルクロードはアジア大陸へ渡ると多くのルートに分かれるが、中央アジアの砂漠のオアシス都市ニサは東西ばかりでなく南北にも繋がるパルティア要塞を擁した重要な中継地点でした。

シルクロードは険しい山脈を越えアフガニスタンへ

バーミャン渓谷の大仏
タリバン兵に爆破される前の大仏

仏教に「ほとけさま」が誕生したガンダーラ(パキスタン)へ

            仏の生まれたタキシブ(ガンダーラ)
 現在のパキスタンはシルクロード中継地点でインドで生まれた仏を中国・日本へつなぐ重要な役割を果たした都市と言われています。

シルクロードはガンダーラから中国クチャへ

シルクロードは中国の都「長安」へ
クチャからはシルクロードは1本にまとまり西安(長安)へ

長安の北「雲崗石窟」に大仏の花を咲かせました。

そして平城京(奈良)へ

ラクダの象嵌がある「螺鈿紫檀五弦琵琶」
世界最古のもので、生まれ故郷の中国やインドでも当時のものは一つも残っていない

東大寺前の灯篭の「音声菩薩(おんじょうぼさつ)」

シルクロードの集大成が「奈良の大仏」さまです。


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